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エトランゼ 2006年12月30日 09:58
ベクトル山本氏の書込にあまりにも頭に来たので、大人気ない文書を書き込んでしまいすみません。

 これでわかったと思いますが、ベクトル山本氏のように、「東南アジアが文化的に先進国より劣ってる」と思う心があれば、「土人」表記であろうと、「原住民」表記であろうと、「先住民」表記であろうと、差別に当たるのです。このように、差別する心があれは、「ヴェトナム人」表記も差別なのです。このように差別する気持ちを持つから、不快感を生み出すのではないのでしょうか?

それでは、なぜ「土人」が不快で「原住民」ならよいのか?

理由:言葉の揺らぎにごまかされやすいから。

以下の違いを考えてください。
例:
・「援助交際」/「売春」
・「ストーカー」/「変質者」
・「自衛隊」/「軍隊」
・「公的資金の投入」/「税金の投入」
・「リストラ」/「解雇」、「首切り」

同一の事象をさしても、左右の表記で感じ方が違うでしょう。

歴史的に考察する。
「まら」:「魔羅」
 「悟りを開く上で、妨げになるもの。障碍(害)」の意味であるが、僧侶の隠語で、己の一物の意味になった。
「般若湯」:
 僧侶は、飲酒を禁じられているので、「酒」のことを「般若湯」と濁している

結局は今の意味になっている。

 自分は、アンコール遺跡やミーソン遺跡などに行って、決して東南アジアが劣っているとは思わない。このような、巨大な中に繊細なレリーフを持った建設物を作り上げた人に、敬意は持っていても。
ただし、いつもこの3つの詩が思い浮かぶ。
・祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり
・國破山河在 城春草木深
・水に魚あり、田に稲あり

あまり、これ以上自分の主張をすると、あうふたさんと同一視されるので、今度こそ終わりにしようと思います。

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