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ベトナムの華人(Chinese)

1: 2009年10月22日 20:36 報告
ベトナムに住む華人(Chinese)のことに詳しい方教えていただけますでしょうか。

留学時代に数多くのベトナム難民の方と友達になり、
現在でも家族ぐるみのお付き合いをしています。
その友人達は皆オーストラリア、カナダ、アメリカに住んでおり、
皆、ボートで南ベトナムを脱出したベトナム難民の人たちです。
それぞれが移民先の国で成功し安定した生活を送っています。
人によっても違いますが、大体8歳から12歳ごろにベトナムから逃れたようです。

その友人のほとんどが自分たちをChinese、またはCantoneseと表現し、たとえ国籍がベトナムでも(見せてもらったパスポート上の表記は国籍がベトナムで、市民権が移住先の国になっていました)決して、自分たちを中国系ベトナム人とは呼ぶことはなく、ベトナム人とは一線おいている印象を受けました。会話はベトナム語も話しますが、家庭では広東語です。そこで彼らや彼らの家族(ご両親や親戚も含め)と付き合っていて疑問に思っていたのですが、中国人は何世代にわたってベトナムに住んでも、ベトナム人という認識は生まれないのでしょうか?

例えば、同じ中国人でも何世代にも渡ってアメリカに住んでいれば
中国系アメリカ人という呼び方もあり、自己紹介するときに自分を”Chinese American”と
表現したりしますが、これは日系アメリカ人もそうですね。 また中国系インドネシア人も
インドネシア人と自分たちを区別しながらも国については抵抗なく中国系のインドネシア人と言っている人が私のまわりには多かったのですが、 ベトナム在住の中国人(華人と呼ぶべき?呼び方が間違っていたらすみません)に至っては、何世代にも渡ってベトナムに住んでいてもあくまでもベトナムに住んでいる中国人であり、自分たちはベトナム人ではないという認識なのでしょうか? 

日本に在住の中国系の人を見てみても、日本語名を持ち、日本人として生活している人も多いかと思いますが、ベトナム国内でもそういう人も多くいるのでしょうか?
たまたま、私の周りが“中国人”であることを特に意識して、ベトナム人と一線おいているだけなのか、それとも難民で国を脱出した人たちの特有の感情なのでしょうか?

私の親しいアメリカ在住の元難民の友人(女性)は同じベトナムからの難民でアメリカの医大に通う恋人がいました。 結婚の約束をしていたのですが、単に彼がベトナム人だからと言う理由で、彼女の家族から猛烈に反対され、やはり難民としてアメリカに渡って来た中国系の男性と結婚しました。反対されたベトナム人の医学生はとても穏やかな性格の人で、実家ははアメリカで成功し裕福、彼自身も将来は医者という、嫁ぎ先としては申し分ないと、当時の私は思っていたので、意外でした。 私はそのとき中国人の親は中国人でないと結婚させたがらず、“純血”を守りたいが故と理解したのですが、彼女の兄弟は日本人やアメリカ人と結婚しています。でもどうしてベトナム人だと駄目なのか疑問に思いました。(似たような話は他でも聞きました)

年配の元難民の方と話していると、ベトナムに定年後は帰ろうかという話題にもなるので、ベトナムを恨んでいる人ばかりでもなさそうです。(中にはそういう人も要ると思いますが)
それとも、基本的には中国人同士で結婚させたいが、まだベトナムに残る親戚を呼び寄せるために有利になる先進国だったら、自分の子供が中国人以外と結婚しても目をつぶるということで、彼女の兄弟が別の民族・人種と結婚することを許したのかわかりませんが。

彼らと話していて共通して感じるのはむしろ 一度も住んだことのない“香港”を母国のように慕い、強い憧れを持っているような印象を受けます。また、その反面、自分たちが話せる中国語が広東語であることに劣等感を持ち自分の子供達には北京語を習わせたいと中華学校に通わせている人が多いです。子供達にベトナム語を維持させようと努めている人は私のまわりにはいません。

ベトナムにおいてのベトナム人と中国人の関係について皆さんのお話を伺えたらと嬉しいです。
長々と失礼しました

みんなのコメント 38

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LeDuangの時代、経済政策も滅茶苦茶だったからな。
ベトナムと北朝鮮比較すれば分かるよ。
基本的な国家の基礎とは何か?その違いを見ればいい。
同じ半島国家で中国の影響が強い。
De
Saigon
a
HoChiMinh Ville
300 ans d'histoire
でも読めば良いと思います。
>中国系とある人は追放されたからというのが一番の理由でしょ。

そんなはなし、聞いたことありませんが???
以前中国とベトナムが揉めた際に身分証明書に中国系とある人は追放されたからというのが一番の理由でしょ。
オリジナルの中国人と華僑は違うからな。考え方が根本的に違う。
韓国人とオリジナル中国人って人の使い方似てるんだよな。『人材』として扱うか『道具』として扱うかの違いが良く分る。

華僑は海外で苦労して商売起したから『人材』の育成にはかなり熱心に感じる。
インドネシアでも同じだったな。全部がそうじゃないけどね。

中国語で『大人』ってあるでしょ。これ今のオリジナル中国人には無いような気がする。共産主義以前に故郷を離れた華僑にそんな大きさを感じるな。今のオリジナル中国人どう見ても成金だも。洗練されてないよな。ロシア人と同じで品が無いというか。

北京オリンピックの時に聖火リレーで日本だと威張りまくって大きな国旗振ってオリジナル中国人騒いでいたでしょ。あの感覚華僑には無いと思うな。
>http://www.jaas.or.jp/pdf/48-4/73-91.pdfに本になる前の古屋さんの論文がありますよ。
ただ私的にはページ数が多くて読む気になりません。

ーこの本すごい、誰が書いただろう。

関係ないですが、あの王監督だって華人ではありませんか。
ただし、日本で生まれて日本で教育を受けた(国籍は不明)。
ついにはWBC日本代表監督になった。華人土着の成功例です。
93年〜96年にベトナムに住みました。当時の部下から聞いていた話
です。

75年以降、とにかく金のある奴ら(華人系中心です)から良い(?)船を
チャーターして逃げだしたそうです。貧乏人は悪い船でコケて捕まる。
また、ブンタオあたりで待っているそのチャーター船と言うのが、
北政府系の手配師が持っていたものらしいです。
つまり、全財産没収のうえ、難民におなりなさい、ということになった。

結果的に貧乏人と逃げ遅れた資本家が残り、さらに逃げ遅れた富裕層
・知識人は強制収容所で「再教育」を受けなさいということになった。

チョロンの人口は最盛期の100万人から50万人まで減ったそうです。
年の若い順に逃がしたとも聞いています。

そもそもチョロンはメコンデルタのコメの流通と金融を握っていたわけ
ですから、富の象徴・資本主義の権化みたいなところで、北政府として
は絶対に見逃せない(政治的にも経済的にも美味しい)ところです。

ホーチミンの言葉で「自由と独立ほど尊いものはない」とありますが、
これは国家レベル・民族レベルでの「外国支配からの自由と独立」ですよ。個人レベルでの自由と独立はどうでもいい話だったようです。
http://www.jaas.or.jp/pdf/48-4/73-91.pdfに本になる前の古屋さんの論文がありますよ。
ただ私的にはページ数が多くて読む気になりませんが。
オイラもアメリカからは、イロんな事学び、ベトナムからも、イロイロと悟ったもんだべ。
とにかく、外に出た人間っ〜のは、何かしら、志しを持ってリュよニェ〜!

下手なラバーネックやレッドネックなどの米国人だと、
逆立ちしても、彼ら途上国から志し持って来てる連中にはさ、敵なわんよニェ!

ただ、バランスも必要だよニャ。

モンゴルの大草原から来た少年だって…

結局は、賛否両論だったんだよニェ!

ただ、平均的なベトナム人、日本人、アメリカ人を、スタートラインをリセットしてから走らせたリャ、誰が勝つかは、明白だよニェ!

皆様の書き込みとても興味深く読ませていただきました。
アメリカの大学に居た頃、となりの席にとても頭のよいベトナム出身の男子生徒が居ました。個人的な話はしたことがありませんでしたが努力家で真面目で気になっていました。 あれから30年。いろいろな国に住みましたが
縁あってベトナムに滞在することになりました。彼のイメージが強かったせいもありますが実際こちらで生活して自分が思っていたベトナムとまったく印象(誠実、一生懸命、ひたむき...真面目!!)が違っていましたが(笑)
それなりに楽しんで?生活しています。 ベトナムゴーも面白い!!いろんな意味で。なかなか目が離せません。
書き込みに出ていた本探して読んでみますね。

今は医学が発達してお腹の中の時点で男女が判別できるけど,昔は違ったんだよな。ポコポコ子供産むから万里の長城越えて進出してるでしょ。
『一人っ子政策』なんてやったじゃない。あんなの先進国でやったなんて歴史無いも。

一番でかいのは明が崩壊して清になって台湾にいたアジア最大の海軍がMyThoに移住したことかな。
>雲南省出身者を中心とするタイ、ビルマ北部の華人社会を見れば、陸を伝ってやって来た中国系の膨大さはわかるでしょう。同じものがラオス、ベトナムにも存在するはずです。

研究価値は有るよニェ。

でも、山越え、結構大変だよニェ!
途中の数々の高地民族らにも、宜しくして貰えたかも疑問だしニェ!
盆地の里に住む連中は、それなりに規律社会を構成してたろうしニェ!
運が良くても、力尽きて、土着したんじゃなかろうかニェ?

たしかに分散を考えれば、沢山居ただろうが、
最終目的地として、華人のテリトリーを築き上げれた連中は、ベトナム山岳地帯の通過は避けたのでは無いかと、勝手に思うよニェ。通過では無く、緩やかな分散程度。
もう少し早そうな移動として成立つなら、ホン河源流は雲南省だから、民族的かつ遺伝子レベルでは、あのラインに沿って繋がってても不思議じゃないよニェ。

当然、交易なら、大昔、黒タイ以前からも有り、相当栄えたんだろうけどニェ!

やはり、オイラ的には、福建当たりから、南シナ海交易によって、華僑が分散したんが、多かったんジェは、ないかと思うっぺ!!




ベトナムで二人の「Ngo」さんを知っています。一人はチョロン出身で広東人です。もう一人は、ダラトに住み、純粋のベトナム人で親戚も含めて、中国系はいません。75年のサイゴン陥落直前の南ベトナム政府大統領?ゴ.ディン.ジェムもダラト出身で、「Ngo」姓だったと思います。チョロン出身の「Ngo」さんは、自身でも広東人と言っていますから、広東名の「Ng」を捨てて、ベトナム風に「Ngo」と名乗っているのでしょう。つい最近の「中越戦争」時代は、中国人であることは、隠したほうが生活しやすかったと言いますから、やはり中国語を学ぶことも、中国名を名乗ることも、生活の便法で、親としては、子供に中国人だあることを忘れさせることもあったと思われます。

 もうひとつは、古くから中国に戦乱、飢饉があるたびに、大量の華人が南下して来たたことは、自明です。それは、明朝崩壊時の大量南下だけではなく、古来から続いてきたはずです。しかも海を通じてだけではなく、陸続きの南下のほうが、数的には多かったと思われます。荒い海に出るよりは、陸を下ってくるほうが、楽だからです。雲南省出身者を中心とするタイ、ビルマ北部の華人社会を見れば、陸を伝ってやって来た中国系の膨大さはわかるでしょう。同じものがラオス、ベトナムにも存在するはずです。実際、ベトナムから逃れた「ボートピープル」で、「中国革命」の戦乱の際に、中国南部の防城県や欽州から、陸続きのベトナム北部に逃れて、さらに下ってサイゴンに住み着いたものの、再び「サイゴン陥落」の混乱から逃れて、タイにたどり着いた人たちがいました。これらの人たちは、親は中国語を話していましたが、子供はベトナム語だけでした。逃げ続けるだけの人生で、それぞれの国の反中国感情を見るにつけ、生き抜いていくためには、中国語を話さないほうが、安全という事情があったと思います。
http://www.google.com/hostednews/ap/article/ALeqM5jro48OOg1V2J8aXk2LOWB3252cnAD9BQMKA80


11月7日、ダナンのTien Saへ入港しましたニェ、フエ生まれのHung Ba Le氏率いる米海軍駆逐艦USS Lassen。

彼5歳の時、ボートピープルで漂流中、米国海軍に難民として救われる。
米国市民権を所得、1992年、米国海軍士官学校を卒業。

2009年4月より、横須賀第7艦隊に所属、米ミサイル駆逐艦「USS Lassen」、艦長に就任する。

2009年11月7日、祖国の土を34年ぶりに踏む。
トマホークを搭載し、イージスシステムを備えた全長155メートルの駆逐艦艦長として…

祖国を出たときは、小さな難民ボートだったのでは有るが…

さて、懐かしの本場のBun Bo Hueは、食べたんじゃろうかニャ?
蘭さん:
福建人が港町で幅を利かせてるのは、古代より航海術に長けていたこと、明代までは泉州が大貿易港だった事などが考えられます。
マレーシアの場合も広東人は、マラッカの福建人よりかなり時代が下った英国植民地以降、主にスズ鉱山労働者として移住したので、福建人の方が先客です。
インドネシアで福建語が俗語になってる例が有るが、インドネシア人はジャカルタ弁スラングと思ってます。「俺」が「グワー」、「(商売)女」が「チャーボ」など。
中央広播電台さん、

ありがとうございます。
こちらの皆さんの豊富な知識にただただ感動していますが
皆さん、かなり、勉強研究されているのですね。
すごいです。

福建人と広東人、それぞれの海外での地盤があるのですね。
特に中継港で福建人が最大勢力となれたのは
何か歴史的な背景があるのですね?

長崎と神戸や横浜の中国人が福建人と広東人で別れているとは知りませんでした。  私の元ベトナム難民の親友がよく、福建人がどうのとか広東人がどうと言っていたことも思い出し、ますます、いろいろ勉強したくなりました。
中国人の歴史 奥が深いです。

ありがとうございました。


anh y emaxx さんの御説、興味深く読みました。

>話しは飛びまちゅが、南シナ海貿易で重要な中継港であったホイアン。
>ココにも福建会館をはじめ、幾つかの同郷会館がございますニャ。

そうそう!東南アジアで、かつての重要な中継港の街はどこも福建人が最大勢力です。調べてみると面白いですよ。例えばクアラルンプールでは英語マレー語に次いで広く使われてる広東語(インド人やマレー人でも喋る人居て、彼らに広東語で時間や道聞かれたりする)、マラッカに入ると福建人の地盤になるので全く通じません。
インドネシアは数では客家が多いんですが、港のあるところ大抵福建人の地盤。フィリピンも同じ。日本も長崎は福建(福清)人の地盤です。神戸や横浜は長崎よりはるか後、幕末以降英国人が香港から連れてきた中国人がメインなので広東人が主流。
anh y emaxx さん、

ありがとうございます!!!!
論文18ページプリントしてしまいました。
後でゆっくり読もうと思います。
奥が深いですね〜!

大学のゼミかなにかで勉強するようなことを
この場で教えていただいて感激です。

それにしても、皆さん、 とっても博識ですね。感動しました。

↓のお言葉、説得力があります。

>成功したものは富とアイデンティティを教育という形で子孫に受け継げた。
>成功しなかったものは、土着したんだと、オイラは思うんよニェ。

それが、最初のレスでanh さんがお書きになった
>ボートに身を任せた最後の決意、
子弟に教育の場さえ与えられなくなった、その絶望感からだそうな。

と繋がるわけですよね。

論文、時間をかけて読んでみますね。
ありがとうございました。
この論文なんて見てたリャ、

http://juntak.c.u-tokyo.ac.jp/ronshu/proof/mio_4.pdf#search='明朝 入植 遺臣 阮氏' 

華人のアイデンティティにも、僑居化したものと、土着化にたものがあリュって事でチたあるよ!

成功したものは富とアイデンティティを教育という形で子孫に受け継げた。
成功しなかったものは、土着したんだと、オイラは思うんよニェ。

しかし、1679年、明朝の遺臣ら、50隻で総勢3000人もが、清朝への服従を嫌い、阮氏の南進政策と絡めて、ベトナム南部に入植した。

そして300年後には、これまで築いた富や名声を奪われ、再度小舟でコッソリと流出。

これ、まさに、華人はボートピープル(タオ)で、ございますしゅな。

ホーチミン市のチョロン地区(5区中心、6区、8区、10区、11区)、小生は年間に100回ぐらいしか行きませんが、
華人会館(廊)は多いですな。

有名なのは、天后宮=ティエンハウ廟=Chua Ba Thien Hau。

広東省出身者たちによって、1760年に建立されたベトナムで最古の華僑寺でしゅな。

キンチョウの蚊取り線香のオバケみたいなので有名でしゅな。

本題に戻り、ここにも天后聖母(媽祖さん)が奉られておりますな。

航海や漁業の守護神で、南シナ海や東シナ海貿易でビジネス構築してきた華僑達には、大切なヨリドコロなんでショなァ〜! (長崎・神戸・横浜などにも、媽祖信仰は残っておりまチュな。)

また、チョロンの天后宮には、安産や子宝の神様も奉られてまシュな!


話しは飛びまちゅが、南シナ海貿易で重要な中継港であったホイアン。
ココにも福建会館をはじめ、幾つかの同郷会館がございますニャ。

各種施設を組み合わせた共通チケット、買わんといけませんので、全部を廻られる邦人は、普通居ませんよニェ!



中央広播電台さん、

詳しい説明ありがとうございました。

お話を伺っていると、昔はある意味ベトナム人と一線置いて
生活していた印象を受けます。
現在は共存している感じですね。

それにしても、外国に居ながら自分たちの言葉を維持できているところが
すごいと思います。

現在も会館は残ってますが、公共福祉は広く社会に開かれた形(病院や葬儀場はベトナム人も利用)となり、行政部門は政府の独占となり、会館は単なる「寄り合い場」になりつつある傾向。
毎年テト前に発行される「西貢解放日報」のカラー大判グラフ誌には、各会館その年の活動が写真入で報道されます。

また中国系にもかかわらず、若い人の中にはQの音がXになるようなベトナム訛りの中国語話す人も見受けられます。
但しチョロンでの広東語通用率はクアラルンプール並みに高く、大抵の場所で通じます。政府機関である郵便局や公安局にも広東語分かる人が居ました。
プノンペンの中国人社会の方が昔のベトナムのそれに近いかも知れません。あちらは潮州系が幅を利かせてますが。
勉強になります。ありがとうございます。

現在はそのような中国人社会は存在しないのでしょうか?
>75年以前にベトナムに住んでいた中国人はほとんど
ベトナム語はできなかったと聞いています。ベトナムに住みながら
「広東語」「福建語」「潮州語」で自分たちの生活圏では不自由しなかった
みたいです。だから自分たちのことは中国人でベトナム人とは思っていなかったと思います。

同郷の会館(広肇、潮州、福建、海南、客家(崇正)など)が病院、学校、商工会議所、銀行業務、貧困家庭援助、揉め事調停、公証人、葬儀場、墓地と揺り篭から墓場まで面倒見てたので、ベトナム語はおろか、標準中国語や他の方言も知らなくても一生生活に困らなかったのでしょう。
台北国際放送局の広東語アナウンサー呂さんはベトナム出身でした。子供のときからピュアな環境で広東語話してたので、香港のラジオよりもずっと正しい発音。
anhyemax さん、

『アメリカのベトナム人  古屋博子著』 の本の紹介、
ありがとうございました。
これも内容が濃そうですね。(いろいろネットで検索してみましたが)
ちょっと、お値段が今は手が出ないのですが、
絶版になる前に入手したいと思います。
いろいろ教えて頂きありがとうございました。
もりさん、

詳しい説明ありがとうございました。

>75年以前にベトナムに住んでいた中国人はほとんど
ベトナム語はできなかったと聞いています。ベトナムに住みながら
「広東語」「福建語」「潮州語」で自分たちの生活圏では不自由しなかった
みたいです。だから自分たちのことは中国人でベトナム人とは思っていなかったと思います。

この説明でなんとなく見えてきたような気がします。
また、身分証明証に民族名が明記されるのであれば、
ますます、”民族”意識も高まって、
戦争前に住んでいた中国人は
ベトナムに暮らせど、中国人として生活していたのかもしれませんね。

また、本の紹介もありがとうございました。
この2冊の本、読んでみようと思っています。

お時間を割いて説明して下さり、ありがとうございました。
今年、       2009年2月発刊の『アメリカのベトナム人  古屋博子著』

体系的ニャ、ベトナム戦争後の難民を扱った研究論文としては、オイラも、次の帰国のときは、取り寄せんとあかんよニェ〜!
これは色んな方向から見つめてて、歴史の細部を垣間見るには、ちょても詳しいんよニャ〜!
6300円か?
一回NV5節約だから、ヤスいモンだよニャ!
この著者も、子供の時に難民として流出さリェた方々と同世代だよニェ!


〉NGOという苗字は漢字にすると「呉」になります。
〉ベトナム語で書くと「NGO」になりますが、

「NGOという苗字は漢字にすると」のNGOは何語?
良く分からない日本語だな〜!
「洋上のアウシュビッツ」竹田遼 講談社
「ベトナムからみた中国」古田元夫 日中出版

この2冊は絶版で手にいれるのは難しいですが、
是非読んでください。
NGOという苗字は漢字にすると
「呉」になります。ベトナム語で
書くと「NGO」になりますが、
広東語では「NG」になると思います。
お知り合いの中国系カナダ人の言うのは広東人であれば
苗字は「NG」であるべきで、「NGO」を使っているのだから
中国人ではなくてベトナム人だという意味だと思います。
ただ福建系中国人の多いシンガポールでは「NGO」と
いう苗字もいるので中国人には「NGO」はいないというのは
間違えです。

75年以前にベトナムに住んでいた中国人はほとんど
ベトナム語はできなかったと聞いています。ベトナムに住みながら
「広東語」「福建語」「潮州語」で自分たちの生活圏では不自由しなかった
みたいです。だから自分たちのことは中国人でベトナム人とは思っていなかったと思います。

香港で大成功をしているベトナム難民の社長と知り合ったことがありますが、
彼も簡単なベトナム語はわかる程度で、広東語、北京語、英語が堪能でした。


失礼!

(たまたま、私とハンドルネームも同じですね!)と書きましたが、

(私のハンドルネームと同じですね!)

の間違いでした。
↑さん、anhyemax さん、
早速のお返事ありがとうございます。

そうなんですね、現在ベトナムに住んでいる中国人は
特にベトナム人であることを否定しているわけではないのですね。

私の友人達に直接聞いてみたいと思ったこともあるのですが、
あれほど、自分たちは中国人であると全面に出しているので
なんだかベトナム人だと思ったことはないかなどと聞いたら、
気分を害されそうで、聞くことが出来ませんでした。

そうですよね、ベトナムを脱出して外国に住んでいる中国系の人たちと
現在、ベトナムに生活している中国人とは考え方がかなり違いますよね。
また、確かにご指摘のとおり、その家族によっても違うので、
一概には言えませんよね。

anhyemax さんが、ブループ分けして下さったのを見ると、
おっしゃられているように確かに私の友人達は

1.ベトナム脱出した比較的裕福な中国系ベトナム人

のようです。

ベトナムではご両親が会社を経営していて、ベトナム語はお手伝いさんから習ったとか、南ベトナム政府関係の仕事をしていたとか、
難民ボートに乗るのにも莫大なお金を支払ったとか話に出てくるので
ベトナムでは富裕層として生活していた中国人かと思われます。
(私はあのボロボロのボートに乗るのにそんなに?ってちょっとびっくりしました)

そこで、まだ疑問が残るのが、ベトナムで幸せな生活を送っていた時もベトナム人と自分たちを分けて考えていたのか、
それとも、難民となってベトナムを離れた時からかということです。
もちろん、それも人によって異なると思いますが、

私の元ベトナム難民の友達の一人に苗字がNgoさんと言う人がいて、
彼も、自分はChinese、またはCantoneseと表現して、
彼の親戚も”中国人”を全面に出して生活していました。
どちらかというとベトナム人を見下しているような部分もありました。
ある日、彼を知るベトナム難民ではないカナダ系の中国人
(その中国系カナダ人の両親は香港からの移民)が、彼のことを
「彼は自分では中国人といって、ベトナム人として認めなくないようだけど、彼はベトナム人だと思う、Ngoは中国系の名前ではなく、
ベトナムの名前。 自分は中国系だからわかる」と言い出しました。

まあ、どうでもよいことなのですが、もともと中国系の彼の祖先が
ベトナムの人と結婚してNgoさんになっただけなのかもしれないのですが、
ベトナム人であることよりも”中国人”としての誇りの方をを強くもち、
ベトナムを否定するのには何か、南ベトナムにいた中国人にとって、
自分たちが特権階級だったような意識があるのかなと言う印象を受けました。 すみません、もうちょっと、歴史を勉強してからここに来るべきでした。
ベトナムに実際住んでいらっしゃる、または在住経験のある方の
生の声を聞かせて頂きたいと思いました。

その、ベトナム難民として日本に来て医者になった女性の話
読んでみようと思います。(たまたま、私とハンドルネームも同じですね!)
私の友達のボートでの脱出の話を聞いてもかなり壮絶でした。
8回も海賊に襲われ、貴金属に換えた全財産を奪われたり、
ボートの中で死んだ人も何人もいたと言っていました。
本当に命賭けで脱出し、移住した国で賢明に生きている。
本当にすごいことだと思います。

anhyemaxさんのおっしゃる↓

>子弟に教育の場さえ与えられなくなった、その絶望感からだそうな。

心に残りました。

まだ何かありました、レス頂けると嬉しいです。








1.ベトナム脱出した比較的裕福な中国系ベトナム人

2.這いつくばって、ベトナムで残り耐えられた余り裕福でなかった層

3.国交回復してからベトナムに戻った連中
多分トピ主は1の環境にある中国系ベトナム人に関して感じた事なんやろニャ!?

それらの環境に有った方々の心境は、例えば、『難民少女ランちゃん―お医者さんになったベトナムの少女』

などを読めば、またいろんな事が見えてきまチュね!

2や3の中国系ベトナム人とは、環境が違っただけに、根本的に違うんでっしゃろな〜!
1の環境に出くわし、ボートに身を任せた最後の決意、
子弟に教育の場さえ与えられなくなった、その絶望感からだそうな。
現在ベトナムに住んでいる中国人は、自分たちをベトナム人だと言います。
ベトナムの身分証明書には民族名が記されているので、そこには華人って書かれてますけど。
いまだに家では広東語をはなす人もいますが、中国語は全然わからない人もいます。

今のベトナムの状況と、国を捨てて、あるいは追われて外国に住んでいる中国人達の状況にはかなりの違いがありますね。その上,家族単位や個人の思惑があるので,一概には言えないことが多いのでは?

ベトナム以外に住む中国系ベトナム人の心の中は、直接お友達に聞いた方がいいでしょう。

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