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ベトナム語で誤解?

1: バカボンのパパと同い年 2004年08月27日 07:01 報告
今月、ベトナム南部のリゾートに家族3人で10日程滞在しました。

偶然、ホテルの近くにとても美味しいレストランを見付け、毎晩通いました。
レストランには10歳の私の娘と同じような体格の男の子がいて(後に18歳と判明)、
いろいろ料理を紹介してくれました。どの料理もとても美味しく、
料理を作っている男の子のお母さんとも毎晩挨拶を交わし、とても楽しい滞在でした。

最終日にメールアドレスを聞かれたので教えたところ、帰国後すぐにメールが届き、
こちらも2,3日後に返信するという文通?を3往復ほどしています。

あちらからのメールには『お元気ですか』とか『有り難う』といった日本語がローマ字で送られてきたので、
こちらもベトナム語の挨拶をと思い、地球の歩き方に載っていた挨拶を送ってみました。

しかし、私のパソコンでは、アルファベットの上や下に付いているヒゲや点は表示できないので、
とりあえず、Chao anh !!(こんにちはのつもり)、Anh khoe khong?(お元気ですか?のつもり)
Cam on !!(ありがとうのつもり)を送ってみました。

これらの言葉は、何か特別の意味でもあるのでしょうか?

それまで料理のレシピや、たわいもない会話だったのに、
急に I miss you tooとか日本のCD送ってくれとか、変な感じになってしまいました。

ベトナム旅行は昨年に続き2回目ですが、旅行中に嫌な思いをしたことが、一度もありません。
他国だったら、旅行者の足元を見て大変なことになっていただろうな。という場面でも、
皆、とても親切にしてくれました。できたら、来年も行きたいと思っています。

しかし、この件は、どうも釈然としないのです。
私は、ヒゲや点を軽く見たばかりに、とんでもないメールを送ってしまったのでしょうか?
それとも、ただ単に、素直に見えた男の子が不良(死語)だったのでしょうか?

みんなのコメント 80

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「アオザイ女房」私も図書館で借りました。
俺のカミさんもベトナム人だが、30歳過ぎて外国語で書くのは無理だろ。
それぐらいは割り引かないと、タオさんも可哀想だよ。
ホントかと疑いながら探したら、図書館にあった。
これ自分で書いたんじゃないね。ライターに書かせてた。ま、おもしろかった。
> 『近藤さんの奥さんが書かれた本も読みました。』
> いいな〜これもうどこにも売ってないよね。話では聞いたが読んだ事が無い。

これ意外に近くの図書館にあったりするんですよね。
日本に帰る機会があったら、ふらっと図書館に寄ってみては?
『アオザイ女房 −ベトナム式女の生き方− 近藤ナウ著 文化出版局』

『虚構の楽園』はベトナムでは発禁になっていたはず。
日本語版を誰かに持ってきてもらうのがいいですよ。
『近藤さんの奥さんが書かれた本も読みました。』
いいな〜これもうどこにも売ってないよね。話では聞いたが読んだ事が無い。

『バーチェットの『17度線の北』やズオン・トゥ・フンの『虚構の楽園』を読むと
どんなものか感じられます。人民裁判はやっぱり怖い。』こんどこの本を探してみよう。
あっ!間違ってました。すみません。
土地改革を誰が進めたかについては、今でもいろんな議論があるようですよ。

アメリカの越僑の間では、ホー・チ・ミン自身にかなりの責任があるという話も
出回っています。彼ら在米越僑の考えはちょっと極端だけど、ホー・チ・ミン自身が
援助を受けていた愛国地主を見殺しにしたのは事実らしい。

ロシアや中国帰りの若い世代が極端に進めていったのは事実みたいですね。
土地改革の雰囲気は、バーチェットの『17度線の北』やズオン・トゥ・フンの
『虚構の楽園』を読むとどんなものか感じられます。人民裁判はやっぱり怖い。
danさん、茶々を入れてすみませんが、本の題名は、

『ハノイの純情、サイゴンの夢』
だったような。講談社文庫ですね。

著者の神田さんの視点は、南から見るものになっていますね。
そういえば、先月、写真展も開かれていたようですよ。
dan様

新しい本の紹介、有り難うございます。早速、神田憲行さんについて調べたところ、
私と同年代の方で情熱的な!?経歴の方でした。

このところホーチミンに傾倒気味だったので、この著者の様に客観的にベトナムを
見ている方の文章は、また視点が変って面白そう。是非、読んでみますね!
バカボンのパパと同い年さんへ

私もベトナムに興味を持ってから、たくさんのベトナムに関する本を読みました。
近藤さんが書かれた2冊の本や近藤さんの奥さんが書かれた本も読みました。

ベトナム通の方から見れば知識が足元にも及ばない私ですが、今まで読んだ本で
一番面白かったのは、神田憲行さんが書かれた「ハノイの純情、サイゴンの青春」です。

現在のハノイとホーチミンの複雑な関係が良く解ります。
もし、読まれてないのなら、是非、読んでみて下さい。
> 以前『米朝会談』の見出しを見て、桂米朝を真っ先に思い浮かべた自分に危機感を覚え、

米朝師匠自身も良くネタにされてましたね。「米朝決裂」なんて新聞に出てるとドキッとする。だってw。
どういたしまして。
一月以上前になりますが、ベトナム戦争に関する本を紹介して頂き、
有り難うございました。10月に入って、やっと本を読む時間が出来たので、
早速きしさんに教えて頂いた近藤紘一の『サイゴンから来た妻と娘』と
『サイゴンのいちばん長い日』を一気に読みました。

開高健に比べて近藤紘一の本は、よりサイゴンの庶民に寄り添った視点から
書かれていて実に面白かったです。『サイゴンの解放』という表現がいかに
北部からの一方的なものであったか、また、自分も知らず知らずのうちに
それと同じ視点から、ベトナムを見ていたことに気付きました。

この2冊の本を読み、以前美子さんが書いて下さった、ご主人の身内の方の
話を重ね合わせると、ベトナム、特にホーチミン市に対する認識が、今までとは
かなり変ってきました。”サイゴン”が愛おしいような気持ちになります。

それにしても、ベトナムは不思議な国です。今まで、色々な国を旅行し、それぞれの
国にそれぞれの激動の歴史があるのに、何度も訪れたくなるのはこの国だけです。

『土地改革』の会話に割り込んでしまい、すみません。早くその話題に
ついていけるようになりたいのです。しかし、どうして高校では現代史を教えてくれ
なかったのかな?きちんとカリキュラムを組んでくれていたら、現代までたどり
付けたはずなのに・・・。メソポタミア文明やらにじっくり時間をかけるより、
現代史の方が余程重要なのに。

情けない話ですが、以前『米朝会談』の見出しを見て、桂米朝を真っ先に
思い浮かべた自分に危機感を覚え、NHK週間子供ニュースでおなじみの
池上彰氏の『そうだったのか!現代史』で現代史を知った次第です。
分かり易く、簡潔で、とても良い本です。

それから、きしさんに紹介して頂いた、中公新書の『ベトナム戦争』も
とても良さそうですね。巻末に人名や事項の索引や年表なども載っています。
これからじっくり読んでみます。
土地改革の最大の失敗要因は、『ベトナムは村社会で大地主が殆どいなかった』ってとこじゃないかな。

スターリンの階級闘争は、無理やり『地主』階級を作り出さないといけない。でも、
隣近所の農家で数平方メート広いから『あいつは地主』とか決め付けられて、処刑されたりしている。

ホーチミンは戦争で忙殺されていて、中国から来た顧問がテーブルで酒を飲みながら
チュオチンに指示したのが実情らしい。ベトナムにしてみれば共産先進国中国の教え
としてありがたく拝聴したが、ベトナムでは全く役に立たなかったってとこじゃない。
そもそもあの『土地改革』自体がどこであれ、
成功する類いのものではなかったと思いますよ。社会主義国すべてで失敗している。

土地改革自体は近代化のために必要ですが、
それは農民の自主性を引き出す方向でしか成功しないでしょう。

日本の敗戦はいろんなひずみも作り出しているけど、小作農に
農地を与えた農地改革は、強権の元でしかできなかっただろうと思います。

ベトナムではいったん与えた土地を集団化で奪おうとするから、大失敗に至ったのだと思う。
土地改革はベトナムの実情に合わなかったね。
忙しいと言っておきながら、他のスレには書き込み。逃げるが勝ちよね。
ただ、ホーチミンが阮愛国と別人だったなら、それはそれで事実として認めるべきだと思うよ。
学者によれば、ホーチミンが潘佩珠を密告して賞金を貰ったなんて、主張してる学者もある。

8月革命の時にバオダイ帝は『阮愛国ならば、政権を譲渡しなければ』って言ったらしいからね。
それがホーチミンと言われて、同一人物か分らなかったらしい。

結局、彼はフランスで死んでしまったけど、自伝か何か残して欲しかったよね。
グエン・アイ・クオックとホー・チ・ミンは別人だという説は、
昔からかなり言われてきましたね。

本当にそうかもしれないし、そうでないかもしれない。検証するには、
あまりにも長いこと外国にいすぎて、跡が追えなくなっているようです。
名高い民族主義者グエン・アイ・クオックの名をソ連が利用しようとした可能性もあります。金日成のように。

いずれにしろ、ホー・チ・ミンは金日成とは違い、
自分の生活を質素に抑制し、自分の子供に王朝を次がせる訳でもなく
(ノン・ドウック・マインが子供ではないかという説はあるにしろ)、ベトナムの独立に
一生を捧げたから、万が一別人だったとしてもホー・チ・ミンの名が汚れることはないですね。
ただ、阮愛国とホーチミンは別人説が今でもかなり謎。
小松清はフランス時代の阮愛国に会ってるが、ホーチミンは別人じゃないかと書いている。

しかし、ホーチミンの方が政策的には現実主義だったことはゆるぎないけどね。別人としても。
ホー・チ・ミンは海外が長かったからね。
外に出て、客観的に見るようになったんじゃないかなあ。幾多の失敗も乗り越えているからね。

しかし、コミンテルンの一員としては限界も多かったから、スターリンや毛沢東のいうがままに
動かないとどうしようもなかったことがあったんだろう。土地改革なんて最低だったからね。
ベトナム民族を客観的に見ていたのは彼だけだったんじゃないかと、思うこのごろ。
>ホーチミンの遺書を隠して、子分に配分与えるような図式になったのはやばかったよな、それは今でも続いてるしね。

ホー・チ・ミンはやっぱり国民の感情、思考がよくわかっていたんだろうね。
自分の灰を3つに分けて、それぞれ、北部、中部、南部に撒くという考えは、
ベトナム人の心に響いたと思うよ。

それが、あんなへんてこな建物の中で蝋人形みたいな
さらしものになっているなんて、浮かばれないね。
話がかみ合っていない会話の応酬を懸念していたのですが、きちんと
会話が成立する方々の間でのやりとりになってよかったですね。いろいろと勉強になります。
》ホー・チ・ミンが生きていたら違っていたはずとみんな思っている。
》本当にそうできたか分からないから、レ・ズアンは割を食ってもいるけれど。

戦争が終った後に減税をする。これは清朝もそうだったけど、この大陸の歴史を見たら有効な手段なんだよね。
日本の明治維新は増税になったけどね。それは地方自治が確立していたからできたはなしであって。

ホーチミンの遺書を隠して、子分に配分与えるような図式になったのはやばかったよな、それは今でも続いてるしね。
これでいいのだ!
にげちゃったね。
>1960年の共産党第三回大会で問題になってるね。
>妻が二人で。逆に解釈してた。書かれなかったら誤解したままだったよ。

美子さんの文章読むと、レ・ズアンに二人の妻がいたってことですね。知らなかった。

レ・ズアン、北でも人気ないですね。
長い停滞の原因だし、国民融和できなかったのもこいつのせいとみんな思っているからね。

ホー・チ・ミンが生きていたら違っていたはずとみんな思っている。
本当にそうできたか分からないから、レ・ズアンは割を食ってもいるけれど。
CCG.VNさん、
そうですね。どの立場で書いてるかは重要ですよね。

きしちゃん、
2人の妻がいることは共産党大会で問題になってたんだ!
うちで家庭教師してた人は南の血筋だったけど、昔はぶりがよかったのに今は大変みたいです。
1960年の共産党第三回大会で問題になってるね。
妻が二人で。逆に解釈してた。書かれなかったら誤解したままだったよ。
》レ・ズアンは南部での指導歴が長かったですが、南部出身じゃありませんよ。

あれ、そうなんだ、読み間違ったかな。ありがとう。
美子さん、

オアインさんの経歴読みましたか?彼の立場でそう言うのは当然ではないでしょうか?
彼は政府として公式に発言しにくいことを代弁しているとも言えます。
きしさん、また誤解している。

レ・ズアンは南部での指導歴が長かったですが、南部出身じゃありませんよ。
この時期の指導者の多くと同様、中部です.ここ、南部派が多いので、一つ北から見た本の紹介を。

『ハノイから吹く風 サイゴン陥落を伝えた日本女性』
でも、レユアンって南部の出身だったはず。
ボーグエンザップ将軍が主流からはずされた原因は、彼の嫉妬と言う話があるね。
> 南部の人間にとって、レ・ユウンは最大の悪党であり、その悪党の名の通りがあるのは屈辱である。
> 共産党独裁政権がなくならないかぎりベトナム近代史に真実はないしベトナム人同士の和解もないだろう。

この感情、なんとなくわかります。私のベトナム語の家庭教師がLe Duanの孫だったのですが、
それを知ったとたん、うちの相方がめちゃめちゃいやな顔をして「けっ」って言ったのを覚えてます。

今「ベトナム経済」(グエン・スアン・オアィン著)を読んでるところですが、
はっきりと「計画経済は失敗であったが、そのことをはっきり認識する前に、戦争に突入したため、
改革が先延ばしになってしまった」というようなことが述べられています。

ベトナム人が経済について書いた本を今まで読んでいなかったので、
そう認識されていると知りませんでした。

なんか話がどんどんそれてすみませんです。
最初は、近藤紘一の『サイゴンから来た妻と娘』辺りから始めればよいかと。
『サイゴンの一番長い日』や『悲劇のインドシナ』。近藤さんの本は文章が分りやすくて、読みやすい。

それで、大体の人の名前を掴んで、中公新書で『ベトナム戦争』という本が出ていたはず。
友達に貸したので今手元に無いけど、政治、冷戦を踏まえて大まかにベトナム戦争を考察している。

ただ、ベトナム戦争関係ばかり読むと対立の建前となった『共産主義』が良く分らなくなる。
ですからスターリン関係、毛沢東関係がどんな政策を行なったか調べて見るともっとよく分ります。

戦争で手一杯なのに、スターリンに『農業の集団化を進めろ』とか強要されたみたいです。
中国人の顧問が中国と同じように土地改革をやって失敗したりとか。
(ベトナムには中国のような大地主が殆どいなかったので、普通の自作農が地主にされて死刑になったり)
だけど、援助頼みの期間だったので、逆らえなかった。

あと、変り種としては仏印進駐時に日本がベトナムに作った『南洋学院』だかという
学校の生徒の記録があります。本の題名失念。これは仏印進駐時の様子が書かれていて珍しい本です。

レ・リ・ヘイスリップさんの『天と地』は一農民少女がアメリカに行って
帰ってくるまでの本で、素直な記述で面白い本です。

アメリカ側から見た本で『彼らはベトナムに行った』と言う本は歴史の時間が経過した段階で書かれた本ですので、
記述が冷静です。戦死者が多かった66年ウエストポイント卒業生に焦点を当てた本です。

その中で『海軍の山羊を盗む』といういたずらが出てくるのですが、
最近航海関係の話を聞いてやっと意味が分った次第です。

何故戦争になったのか?これはマクナマラの本を読むしかないですね。
2冊あります。『回想録』『果てしない論争』。もう一冊の方はその当時戦争を指導した、
ベトナム側とアメリカ側が討論をした結果が書かれている異色作と言っていいでしょう。
日本では全然宣伝されませんでしたけどね。

最近、ボーグエンザップ将軍のインタビューを読みましたが、
『孫はドラえもんに夢中で、戦争の頃の話を聞いてくれない』と言っていました。

ドラえもん>ベトナム>アメリカ>日本が強い順番かもしれません。
最初はドラえもんから攻めてはいかがでしょうか?
南部の人間にとって、レ・ユウンは最大の悪党であり、その悪党の名の通りがあるのは屈辱である。
共産党独裁政権がなくならないかぎりベトナム近代史に真実はないしベトナム人同士の和解もないだろう。
私も、とても勉強になります。

本田勝一の『戦場の村』を十数年前に読んだのを最後に、育児期間を経て、
日々アホになっていったので。大学の講義よりも、もっと為になると思われる。

一般論ですが、論理的に破綻している方との議論は、あまり建設的でないし、
下手に無視すると相手はこちらを論破したつもりになるし、疲れるだけなのでいつも避けていました。
一般論だから、これ以上書けないけど、きしさんは、偉い!!もっと書きたいけど、止めとこ。

ところで、ベトナム戦争を総括している、お薦めの本、ありますか?
『マクナマラ回顧録』も未だ読んでいないのに、何なんですけど。

また、ベトナム人の方のご意見も伺いたいので、
時間を見付けて書き込んでいただけると、とても有り難いです。
わたしはとても勉強になりますけど。
話がかみ合ってない人どうしの議論は、あまり生産的とはいえませんな。
まだ続くの・・・
きし さん、
いま仕事ですごくいそがしいので返事はしばらく(数日)待ってください。サンクス
》南部の武力解放はやりたくなかったんだ.そこがホー・チ・ミンの甘さだったね.

この点は評価が分かれるだろうね。レユアンは戦後あんな経済政策やったけど、
『選挙が実現するなんて思ってなかった』って喝破してるからね。

でも、解放前じゃなくて解放後にボートピープルが出たという現象をどう解釈していいのやら。
腐敗のサイゴン政権と言われたが、船で逃げるような輩いなかったし。

ベトナム側の資料がもっと出て欲しいよね。
南ベトナム軍の、Ap Bacについて詳しい本ないかな。あと、初期のテロ関係が説明されている本。
ディエンビエンフーも戦場内容が詳しく書かれてる日本の本が無いんだよね。

日本の戦史博物館で調べれば良いんだろうけど、いけないしな。残念。
大人だねえ.中年宣言もだてじゃない.

解放戦線は出来たときには共産党の息がかかっていた.
第三勢力を装ってグエン・フー・トを議長にしたけど、キシさんのいう通り秘密党員だったからね。

でも、最初から解放戦線があったんじゃないよ.
住民の自発的な蜂起があり、むしろ突き上げられた形だったからね.

ホー・チ・ミンは国民投票にまだ期待していたし、ようやく武力闘争をやめられて
国づくりを始めたかったから、できれば南部の武力解放はやりたくなかったんだ.
そこがホー・チ・ミンの甘さだったね.

ま、こんなこと、調べもせずに適当なことを言っている輩と違ってキシさんは百も承知だろうけど.
反論無かったら終わり。自分で考えを整理できるから、こんな話もためになる。
キシさん、スレのタイトルと内容がずいぶんずれているよ.別にたてたら.
》人力は戦力である、とばかり産めよ増やせよで人間を増産した(私もその一人)。

これは、日中戦争の影響でしょうね。毎年、10%の死傷率があった。
それを抱えながら、アメリカと戦争をしたという判断は、確かにどう見ても日本の政策ミスだし。

戦争のスペシャリストの判断じゃないね。
ただ、アメリカは日本を欧州参加の理由にしたかったからね。

食えなくなって、満州に行ったのは世界恐慌という世界同時不況の影響。
前提としてその当時避妊が一般的でなかったから、ポコポコ生まれたという事もある。

加藤シヅエさんの本読んだらそんな事書いてあったよ。
日本社会党を作った人であり、『産児制限』を日本に広めた人。
あなたの世代ならモチロン知ってますよねそんな事ぐらい。
》まだまだ勉強不足ですな〜。

ただ、感想だけでなく説明してくれると親切ですね。
》まだまだ勉強不足ですな〜。

土地改革の失敗と戦争開始は結びつかないですよ。
最初の抵抗は、『南に住む』人たちが組織した解放戦線が、
南ベトナム軍の兵器でゲリラ戦したのが始まりですから。

ま!グエン・フー・トーは秘密党員だったらしいですけどね。
》「戦争なんか出来る財政状態じゃなかった」、と私の自説に賛同しています。

どうも、話の前提が違うみたいですね。昔の棒を振り回して戦っていた時代ならいざ知らず。
近代戦で素手で戦うような戦争はただ単に一方的な虐殺ですよ。ホーチミンはそこまで馬鹿じゃないですよ。
ちゃんと援助の約束を取り付けてから、戦争に踏み込んでいる。別に北ベトナムが食えなかった訳じゃない。


》世界の一等国で現実に食えなくなっていた。兵器ばかり作っていて、
》人力は戦力である、とばかり産めよ増やせよで人間を増産した(私もその一人)。

多分、日本のこと言ってるのかな?そういう時代だし、他国も同じ。
今みたいに米軍が駐留して守ってくれてる時代じゃなかったし。


》それをどうやって食わせるのだ。おれは飢えた。食い物が国内になければそれを求めて外国に行く。
》北ベトナムの為したことは、それと同じであった。そうおもって間違いない。

戦争は色々な国ごとに事情がある訳で、それを一緒くたに結びつけてしまうのは、どうなのかな。
自分の悲惨な経験から同情するのと、自分がこうだったから、相手も同じと考えるのは別だと思いますけどね。
自分とは違う人間が世の中にいないと言う事になりませんか?


》「北ベトナムの財政見ても・・・」だから私は「戦争は金だ」と言っています。
》ソ連と中国の現物支給がなかったら「とても、戦争なんか出来」なかったでしょう。

一原因としては、否定しませんが。その当時の状況を調べてそのようにおっしゃってるのですか?


》フィリピン戦線では母国から「米の一粒も送ってこなかった」といいます。
》金がなく、補給がなく、多くの戦場の兵士は戦うどころでなく餓死するだけであった。
》誤解するでしょうけど、食えていればいくらでも戦争を続行できます。

『飢えが戦争の原因』『金が戦争の原因』
『フィリピン戦線』が出てきたり。
『食えていればいくらでも戦争を続行できます。』
となったり。自分で書いてておかしいと思いません?
>>北ベトナムが、『飢え』のために武力侵攻したなんて、初めて聞く珍説だな〜。    まだまだ勉強不足ですな〜。
私も勉強中だが、

韓国は朝鮮戦争当時、北朝鮮のタラを韓国に輸出し韓国はアメリカらら援助で貰った、
工業製品を輸出してバター貿易をしていた。

韓国は自律経済が営めないぐらい、食糧不足。その当時中国の工業製品の80%は満州で製造されていた。
北朝鮮、満州は日本の戦前の投資がかなり入っており、無傷で終戦になったから韓国よりどう考えても裕福。
違う資料があったら教えて欲しいな。なんの本だろう。

『北朝鮮がうまくいっていたなどとは、おとぎばなしの伝説です。』ではなく、
既に北朝鮮には資産があったんですよ。

朝鮮戦争被害はむごいの一言。全土が焦土と化したといっていい。
どう考えても『貧しい北朝鮮が、裕福な韓国を侵略した』という図式は当てはまらない。
だから『ドミノ理論』が考え出された、原因になったと考えた方が普通だと思うが?

『どん底の日本や朝鮮戦争直後の韓国より上まっていても、ほとんど意味がありません。』
裕福と言うのは比較の問題だと思うが、ここで否定してしまうと、
『昔も今も戦争を起こすのも止めるのも「飢えと金」』というのは何の意味だか分らなくなるのだが?

後、セイロンの例を出さなくても、日本より個人所得が上だった国は、いっぱいありますよ。
日本が経済大国になったのはつい最近の事ですから。サイゴンだってそうだし。
日本人娼婦が出稼ぎに来てた位ですから。

『アメリカがコミュニズムの将棋倒しを恐れたからでしょう。そこに、
フランスの敗退、コミュニズムの流行があったことが契機(引き金)になり、
繰り返しますけど、「飢えの力」を引き出したのです。』

北ベトナムが、『飢え』のために武力侵攻したなんて、初めて聞く珍説だな〜。
ハノイの人聞いたら怒るんじゃないの。誰が見てもその当時の北ベトナムが
『飢え』なんて理由で侵攻したなんて、思わないと思うよ。

ハイフォンが戦前工業地帯だった事は有名な話しだし。エネルギーの石炭だって南には無いしね。
米が欲しかったら、工業製品売って米買った方が、あんな大戦争するよりまともだと思うけどね。
ベトナム在住の方々、ベトナム人代表の方等、いろいろ情報を有り難うございます。

本来ならば、これらの情報に辿り着くまでに多くのプロセスを経なければならない所でしたが、
ベトナムゴーのお陰で貴重な情報やご意見を直接得ることが出来ました。

私は、未だ一旅行者の域を出ませんが、これを機会に少しずつでもベトナムを知り、
それに伴って柔軟に視点を変えていければと考えています。

美子様
今年のベトナム旅行を計画し始めた春先から、よくお名前を目にしておりました。
楽しい情報、在ベトナムならではのご意見、いつも有り難うございます。
美子様に返信していただけて、とても嬉しく思います。

きし様
時々、エロいことも書かはるけど、なかなかの御仁と見ました。健闘を祈ります。
しかし、お節介を承知で言わせて頂くと、もう少し早く寝はった方が良い様な気がします。
お身体大切に。

本来のトピックスから大きくずれてしまいましたが、ベトナムを少しでも理解する上で、
ベトナム戦争は避けて通れない、避けるべきではない問題と思い、
この機会に質問させて頂きました。有り難うございます。
セイロン→スリランカ
きし さん、

> 北朝鮮も70年代になって経済が悪化したけど、
> それ以前は資源、工業的には韓国より上なんだよね。

と、とんでもない。それはわざわざ資料を提示して反論することでもありますまい。
個人的に知っていることでは、在日の白系ロシア人が
「セーター一枚が7千円もする。そんなところに戻れない」と嘆いたのを思い出します。

大学出の初任給が3万円そこそこのときです。大親分のソ連にしてそうです。
ましてや、北朝鮮がうまくいっていたなどとは、おとぎばなしの伝説です。

その70年代以前だったか、在日朝鮮人は「夢の国」に10万人も帰還した。
そこにあったものは。何もない。木の根をほじくり飢えをしのぎ、餓死しただけだった、といいます。

ちなみに、セイロンという国をご存知ですか。名前も変わってどこにあるかも知らないでしょう。
そこの経済力は一時期日本より上であったといいます。
どん底の日本や朝鮮戦争直後の韓国より上まっていても、ほとんど意味がありません。

だからこの『昔も今も戦争を起こすのも止めるのも「飢えと金」である、
と私は認識しています。』前提は当てはまらないと思う、というは当てはまらない、です。

> ホーチミンも南部を武力開放する事に対しては、最後までためらいぬいた。
> 統一選挙が行なわれる前提で南に残ったベトミンがドンドン弾圧されるに従って、
> 下からの圧力が強くなって、結局は武力解放に踏み切った。

「・・・ためらいぬいた。」ふーむ、そうなのですか。いつもおしえていただき感謝します。
でも、「アメリカの大規模な軍事介入」というのはアメリカがコミュニズムの将棋倒しを恐れたからでしょう。
そこに、フランスの敗退、コミュニズムの流行があったことが契機(引き金)になり、
繰り返しますけど、「飢えの力」を引き出したのです。

> 案の定アメリカの大規模な軍事介入を招く結果になり。果たして良かった事なのか。
> 50年代の北ベトナムの財政見てもとても、戦争なんか出来る財政状態じゃなかったし。

「戦争なんか出来る財政状態じゃなかった」、と私の自説に賛同しています。

世界の一等国で現実に食えなくなっていた。兵器ばかり作っていて、
人力は戦力である、とばかり産めよ増やせよで人間を増産した(私もその一人)。

それをどうやって食わせるのだ。おれは飢えた。食い物が国内になければそれを求めて外国に行く。
北ベトナムの為したことは、それと同じであった。そうおもって間違いない。

ホーおじさんも、こっちの責任為政者たちも人民が飢えているのを見かねる。
(北朝鮮のなんとか委員長どのの本心もおなじである、と私はおもう。)

「北ベトナムの財政見ても・・・」だから私は「戦争は金だ」と言っています。
ソ連と中国の現物支給がなかったら「とても、戦争なんか出来」なかったでしょう。

フィリピン戦線では母国から「米の一粒も送ってこなかった」といいます。
金がなく、補給がなく、多くの戦場の兵士は戦うどころでなく餓死するだけであった。
誤解するでしょうけど、食えていればいくらでも戦争を続行できます。

注: わたしは絶大に威力のある金は嫌いです。
222 とやらさん、

電波とはなんだ!あんたは電波を知っているのか。知らないだろう。
その証拠に、マクスウエルの変微分方程式を説明してみな。おれは電波を発するプロの国家資格をもっている。
「在外ベトナム人代表」さん、

> ・・・べトコンの死体なんだてただ珍しいものを見ている感じでした。

私も似たような情景を中国で60年前に見ている。無感動。人はあまりの悲惨は正視できないです。
それを無意識に抑圧する。語るとしたら、なにかに仮託して話すしかない。

しかし、それは一種の人格崩壊である。人が人であっては生きられない。
米英は人でなく鬼畜であり、ベトコンはアカであってベトナム人でない、と「意識化」する。

だから死体に平気だ。いいや、どうせこれは獣だから、と。
そして、自分も人でなしに、獣になっている。獣の道を歩まねば平静でいられなくなる。

記憶が甦ることがある。ニューヨークのある街角で「おれはあんたらのために戦った」という、
両脚のないベトナム従軍兵のメッセージに、彼の苦渋をおもう。

ベトナムは民族の我をとりもどすのに、30年どころでなく数百年かかるでしょう。
我らは、このあいだの中国からのブーイングで、獣道を清算していないことに
嫌というほど気づかされた。60年で終わっていなかった。

PS:きし さん、あらためてお返事します。
まあ、そもそも電波な書き込みに反応するのはいかがなものかと。
北朝鮮も70年代になって経済が悪化したけど、
それ以前は資源、工業的には韓国より上なんだよね。

だからこの『昔も今も戦争を起こすのも止めるのも「飢えと金」である、
と私は認識しています。』前提は当てはまらないと思う。

ホーチミンも南部を武力開放する事に対しては、最後までためらいぬいた。
統一選挙が行なわれる前提で南に残ったベトミンがドンドン弾圧されるに従って、
下からの圧力が強くなって、結局は武力解放に踏み切った。

案の定アメリカの大規模な軍事介入を招く結果になり。果たして良かった事なのか。
50年代の北ベトナムの財政見てもとても、戦争なんか出来る財政状態じゃなかったし。
> なに人であれ、あなたのような無神経、薄情、冷淡を許さん!いきり立ってくる。

ベトナムも我らも民族の惨劇は消せない。人ごとでない我らの戦争が終わってその2倍経つ。
子供のころ道端に並べられたべトコンの死体を見たとき感じたのは、それは人間の死体ではなく、
べトコンの死体なんだてただ珍しいものを見ている感じでした。

これは私だけではなくまわりの子供も大人もそんなかんじで見てました。
みなさん、

多くの参考になる知見ありがとうございます。
私自身は「跳ね返した」といっているので、勝敗を問題としていません。

私は、ほんの断片だけであるが、あの大戦争を体験しての結論は、
戦争は勝つか負けるかでなく、生きられるかどうかだけだ、ということです。

昔も今も戦争を起こすのも止めるのも「飢えと金」である、と私は認識しています。
生きられないから、飢えるから食のあるところに口を持っていく
(現代はそれと同等にエネルギのあるところにも)。

ベトナムの北は急激に増えていた人口に食わせるために、
南の豊穣なメコン デルタを獲得に行ったのではないか。

ほっとけば今の北朝鮮みたいになってしまう。
これがベトナム戦争の最大の要因である(そして日本の太平洋戦争も)。

金。戦は金が無くてはできないのです。
アメリカは議会が戦費をストップしたから、撤退せざるを得なかった。

北はソ連と中国から武器弾薬(食い物も)を現物支給してもらった。
日露戦争は金の切れ目が縁(戦争)の切れ目であった。
太平洋戦争では軍部が金を掌握したから戦端を開けた。

偽「在外ベトナム人代表」さん、

> ベトナム戦争が終わって30年近くもたつのにいまだにベ平連、低度の知識しかない人間がまだいるとは

なに人であれ、あなたのような無神経、薄情、冷淡を許さん!いきり立ってくる。
ベトナムも我らも民族の惨劇は消せない。人ごとでない我らの戦争が終わってその2倍経つ。

私には両戦争が重なって見える。あなたの「高度の知識」をお聞かせ願えたら幸いです。
》ベトナム戦争が終わって30年近くもたつのにいまだにベ平連、低度の知識しかない人間がまだいるとは

ベトナム戦争調べていて思うが、ベトナム人は民族的に纏まっていないんだよね。
アメリカとの戦争がクローズアップされるが、『内戦』という見方も出来る。

べ平連の活動は、その当時の記事など読むと、現地では結構評価されているがね。
イデオロギッシュだけど、事実は事実。
》南ベトナムの兵隊さんは誰と戦って何人死んだのかねえ。

ネットで検索したら簡単に出てくるが。。。
> 戦死者は比較すれば、アメリカ対北ベトナム、南ベトナム民族解放戦線の比率は1対20ぐらいになる

南ベトナムの兵隊さんは誰と戦って何人死んだのかねえ。
ベトナム戦争が終わって30年近くもたつのにいまだにベ平連、低度の知識しかない人間がまだいるとは
戦死者は比較すれば、アメリカ対北ベトナム、南ベトナム民族解放戦線の比率は
1対20ぐらいになる。これが勝利かどうかは、判断の分かれる所でしょう。

『相手の土地を踏む』が基準であれば、結果としてアメリカ撤退後の
北ベトナムの勝ちと判断していいのではないかと。

最近、マクナマラ氏とその当時のベトナム要人が会議をして
『なぜあのような大規模な戦争に発展したのか?』という議論が本になりました。

原因は、

一、ベトナム側はその当時外交の素人で、国際会議の場で積極的に発言する方法を知らなかった。
よってソ連、中国がベトナムの代弁者となり、ベトナムはソ連の傀儡国家という印象をアメリカが持った。

二、仏教が多数のベトナムで、アメリカはカソリックの大統領を擁立した。

三、アメリカの膨大な援助にたかる、南ベトナムのどうにもならない腐敗。

レ・リ・ヘイスリップさんの本を読んでも、その当時の識字率が高くないベトナム人が、
『資本主義』『共産主義』など一般的に理解していなかったと思います。

ベトナム共産党もフルシチョフの『スターリン批判』から、中国との仲が険悪なった影響を受けて、
『中国派』『ソ連派』に分かれていたらしい。それをまとめていたのが、ホーチミン。

アメリカ、ソ連、中国は『ベトナムの分割』で利害が一致していた。
しかし、ホーチミンは『統一独立』路線を頑として譲らなかった。

多分、アメリカ撤退の理由は、インドネシアで9月30日事件で共産主義よりの
スカルノが失脚して太平洋のシーレーンの問題が除去された事が大きな原因だと思います。
私は在住であっても専門家ではないので詳しくありませんが、
おっしゃるとおりベトナム戦争の構図は複雑で、ベトナムは冷戦の代理戦争、
アメリカ対ベトナム、北と南、南部の内戦、などの構図が複雑に絡み合っています。

また、北が勝利したとはいえ、戦後の経済政策はひどいもので、
現在は「戦後の計画経済は誤りであった」とはっきり認められていますし、
戦争によって勝利した側の人たちでも、苦しい思いをした人が多いわけで。。。

うちの連れ合いは元南部将校の息子ですが、解放戦線のことを「ベトコン」といいますし、
クチトンネルにいっても、解放戦線がすごいなどとは思っていません。

将校であった父親はアメリカへ逃れる道が用意されていたものの、
両親がベトナムを離れたくないというため、一緒に残り、解放の日に逮捕され、
ひとり再教育と称して収容(その間他の家族は隠れていた)、
新経済区といわれる奥地へおいやられ、未だに家族と離れて暮らしています。

最近はホーチミンに戻れるようになったようですが、
すっかり街もかわってしまったので、戻りたくなくなってしまったようです。

また、私の同僚(南部出身者、28歳)は、
真剣に「学校ではベトナムが勝ったとならいますが、私の家では
ベトナムは勝っていない。アメリカがただ単に兵を引き上げただけのことだ、
とならいました。ほんとにアメリカは負けてませんよ!」と力説していました。

私も戦争のことはあまり人に聞きこみをしたりしていないので、
私の経験の粋を超えませんが、「ベトナムは戦争に勝ったんだ」と力説する人はであったことがなく、
むしろマイナスの話を耳にすることが多いです。

まあ、ベトナム戦争時代を経験した知り合いが少ないためもありますが、
何より戦争の話自体話題にしません。他の方はいかがでしょうか。
> しかし、18歳が10歳に見えることは明らかに栄養不良です。
> 日本でも飢餓の戦時中と現在の人間を比べると背丈で15cmくらい違います。
> こんど行ったらその子に沢山食べさしてあげてください。

男の子のレストランも自営ですし、
PCでメールをしているくらいですから、栄養不良では無いと思われます。

また、『沢山食べさしてあげてください。』ですが、
食べさせてあげるという表現に、私は個人的に違和感をおぼえます。

上手く説明できませんが、あなたと私はどうも立ち位置が決定的に違うような気がします。
同じである必要も無いので、この件で議論するのは止めましょう。

また、昭和40年代は私の小学生時代そのものですので、生まれたばかりではありません。
当然、具体的な記憶もありますし、時代の匂いみたいなものも憶えています。

今のベトナムが昭和20年代に似ていると仰るなら、そうかもしれません。
しかし、私は41年の年月の中で、個人的に感じたことを『漠然と』書いたまでです。
ご理解いただければ幸いです。

私にはベトナム通の友人がいないので、この場を借りてお聞きしたいのですが、
ベトナム人はベトナム戦争に勝利したという意識を持っている方が多いのですか?

開高健の『ベトナム戦記』や『輝ける闇』を読んでいると、アメリカ対ベトナムという
単純な構図では全くなく、もっとモザイクのような、複雑で出口の無い悲惨さを感じました。

また、今でもベトナム戦争の話題を彼らに聞くのはタブーと耳にしたこともあります。
実際のところ、どうなのでしょう? 出来れば、ベトナム在住の方に教えて頂きたいのですが・・・。
みなさんの「誤解」を拝見して少し思うことがあります。

> レストランには10歳の私の娘と同じような体格の男の子がいて(後に18歳と判明)、・・・

こういうのって不思議なのですね。
クアラ ルンプールで6才くらいの女児にしかどうしても見えないのに10才であったり、
サイゴンで12才くらいとおもっていたら17才であったりします。

逆にアメリカで日本人の16才の男の子が仲間から酒を買いに行かされる。
異民族の年令は分かりにくいようです。

しかし、18歳が10歳に見えることは明らかに栄養不良です。
日本でも飢餓の戦時中と現在の人間を比べると背丈で15cmくらい違います。
こんど行ったらその子に沢山食べさしてあげてください。

> 『欲しいな〜』という事をそのまま言ってしまう。

私も擬似12才から「それちょうだい」といわれた。
それが旅の必携のデジカメであったのであげられなかった。

落胆していたので代わりにハーモニカをあげたのだけど喜ばなかった。

> ベトナム人に対して漠然と昭和40年代の日本人像を重ねていました。・・・『41歳の夏』・・・

あなたはそのころ生まれたばかりのはずで当時の日本人像を知っているとは驚きです。

私はそれより古から生きているので知っているのですが、決して重ならない部分があります。
一例は、対アメリカで、日本人は萎縮しているのに、ベトナム人は跳ね返した自負心があります。
また、当時はアメリカとの経済格差はあったけど猛追していた。
似ているのは、むしろ、こっちの昭和20年代でしょう。
日本の場合不景気といっても金余りだからな。

BowWowWow様のように、ネットに接続して金を使って
このような事を楽しんでする輩はまだいない。

悪戯電話を頻繁に掛けて楽しむ輩がいるのも先進国。金が余ってる証拠。
根無し草様、返信有り難うございます。

何か、受け狙いの文章をと文面を考えたり、それを夫に止められたりしている間に、
根無し草様からのメールをいただいたようです。

外国に住んでらっしゃる方からご意見を伺えて、なるほどと思い直しました。

BowWowWow様、残念ですが、私、既婚女性です。
しかしながら、ここ数年、スカートをはいたことが無く、
美白とは程遠く、ある意味『大阪のおっさん』です。半分当たっています。

私にとっては、ベトナム人の印象は非常に良く、
バブル後の日本人よりモラルもしっかりしているように見受けられました。

平均的に見て未だすれていないベトナム人も、あと数年すれば
今の日本人のようになるのかな。などど帰りの飛行機の中で考えたものです。

日本も戦後30年の、昭和50年くらいまでは、そこそこ良い国だったような気がします。
な!日本人もあんまり変らん証拠が出てきて終わり。
BowWowWow氏みたいな奴も日本人にはいるんだから。お互い様。
↑バカボンのパパと同い年さんは、結婚されてますよ。

一番最初に「家族3人で10日程滞在しました。」
次に「レストランには10歳の私の娘と同じような体格の男の子がいて」

と書いてあるじゃない。読解力ないのに、中傷しないこと!すごく不快ですよ。
いいおっさんがきもいんじゃ。早く結婚しろや。
きし様、rikki様、返信ありがとうございます。

とりあえず、自分の送ったメールがとんでもないものでなくて、一安心しました。
有り難うございます。これで枕を高くして寝られます。

私は、昨年の旅行と合わせてもベトナムには3週間ほどしか滞在していませんが、
ベトナム人に対して漠然と昭和40年代の日本人像を重ねていました。

しかし、実際には南国特有のおおらかさがあるんでしょうね。いろいろ勉強になりました。
あちらのお母さんにはとても良くして頂いたので、後味が悪くならないように、慎重に対処したいと思います。

こうして、『41歳の夏』の夜が更けていく・・・・。
今私が住んでいる国(ベトナムではありませんが・・・)の人たちも、
よく挨拶代わりの様に気軽に「〜ちょうだい」とか言ったりします。

きしさんがおっしゃるように、別に深い意味はないけど、
「もらえたらラッキー」位に気軽に考えていたり、
「外国人は自分たちに比べて途方もなくお金持ちだから、
とりあえずねだってみる?」という感じだったりします。

断られても、別に気まずくなったりとか(断ったほうは、気まずいのに!!)せず、
次に会ったときもごく普通に接してきます。これはもう、習慣の違いというしかありません。

ベトナムではもしかしたら違う意味合いで、悪質なたかり(?)なのかもしれませんが、
世界には、上記のような人たちもいるのです。
ベトナム語の解釈の問題とかではなく、ベトナム人の知り合いや友達との付き合い方が
日本人とは違うってことではないかと思います。

そんなに友達になったわけでもない人にたとえばサイゴンからハノイに遊びに行くといえば
ハノイのどこどこに自分の親戚がいるからこれを届けてくれとか頼んだりする人は多いような気がするんですよね。

ちなみに
> しかし、私のパソコンでは、アルファベットの上や下に付いているヒゲや点は表示できないので、
> とりあえず、Chao anh !! (こんにちはのつもり)、 Anh khoe khong?(お元気ですか?のつもり)
> Cam on !!(ありがとうのつもり)を送ってみました。

確かにヒゲのような記号のあるなしで意味の変わってくる単語もありますが、
簡単な挨拶程度の言葉でそういう変な誤解を受けることはないと思います。

もちろんこの3つの語もバカボンのパパと同い年さんの意図どおりに受け取ってもらっていると思います。
ただし厳密にはバカボンのパパと同い年さんがハンドルが示すとおりのお年で
相手が18歳ならばChao anhでなくChao emもしくはChao chauではないかと思います。

ベトナム語は人称代名詞が面倒くさいです。でも逆にそこまでさらにまた修正していると
本格的にベトナム語を勉強しているのかと相手は親近感を強めて依頼内容がバージョンアップしたりして。

私だったら、さらっと断るか、いくらかかりますと書くかして反応を見るかしますかね。
私の奥さんもそうだが、『欲しいな〜』という事をそのまま言ってしまう。
これは別に本心から欲しいということではなく、『もらえたらラッキー』程度の発言。

日本人にしてみれば、『大した重要でもない物をなんだ!』となるけど
これから先はあなたと相手の関係なのでなんともいえない。

教養がある人はそんな軽はずみな発言はしないし、欲しい時は理由を言ってくる。
逆にこっちが日本の文化で『海外でこのような評価がされてるのか〜』とビックリする時がある。

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